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2013年企画展示「日本初の女子大学生誕生100年 黒田チカと牧田らく」

2013年企画展示 「日本初の女子大学生誕生100年 黒田チカと牧田らく」 

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大正2(1913) 年、お茶の水女子大学の前身である東京女子高等師範学校から日本初の女子大学生が誕生しました。 東北帝国大学(現:東北大学)が女性に門戸を開き、卒業生でありかつ当時の教員であった黒田チカと牧田らくが入学したのです。 これは日本の大学では初めてのことであり、画期的なことでした。明治8(1875)年の創立以来、お茶の水女子大学は数多の先駆的な女性たちを輩出してきました。 現在においても女性研究者支援や女性リーダー育成に積極的に取り組み、日本における女性教育の先達として常に前進しています。今年は日本初の女子大学生が誕生して100年目の記念の年にあたります。 この機会に写真パネル約50点を中心に、当時の資料を交えて、日本初の女子大学生が誕生した経緯や、黒田と牧田の人物像、そして現在のお茶の水女子大学の取り組みを紹介します。

開催時の案内はこちら ⇒ 2013年企画展示

東北帝国大学の女子学生への門戸開放

明治40(1907)年、東北帝国大学は、第三の帝国大学として、宮城県仙台市に創立しました。そして、東北帝大の理科大学(後に理学部)は、明治44(1911)年に開設されました。 大正2(1913)年、女性への門戸を開放し、理科大学に黒田チカ、牧田らく、そして日本女子大学校の丹下ウメの3名の女子学生が入学しました。このことは当時の世を大きく驚かせました。 特に、文部省は前例の無いことであり「頗ル重大ナル事件」として説明を求める書簡を東北帝大に送っています。 この女性への門戸開放により、彼女たちが女性研究者としての道を切り拓き、後 に輝かしい功績を遺したことは、後継の多くの女性たちにとって大きく意義のあることであったのはいうまでもありません。

黒田チカ(化学)

授業風景 黒田チカは、明治17(1884)年に佐賀県で生まれました。女 高師(後に東京女高師)を明治39(1906)年に卒業しています。東北帝大では化学を専攻し、紫根(しこん)の色素の構造研究に取り組みました。 卒業後は東京女高師の教壇に立ちながら、理化学研究所にも席を置き研究を続けました。昭和4(1929)年には、日本で2番目の女性理学博士(化学の分野では初)となりました。 東京女高師には、戦後にお茶の水女子大学として開学した後も、昭和27(1952)年に68歳で定年退官するまで教授として勤務しています。そして、昭和43(1968)年、84歳で亡くなりました。 お茶の水女子大学が所有する黒田の天然色素研究関連資料は、平成25(2013)年3月に日本化学会化学遺産(第019号)に認定されています。

黒田チカ講演音源映像

牧田らく(数学)

牧田らくは、明治21(1888)年に京都府で生まれました。東京女高師を明治44(1911)年に卒業しています。 東北帝大では数学を専攻し、在学中に2本の論文を発表しました。 大正5(1916)年に同大学を卒業し、黒田チカと共に我が国最初の女性理学士の一人となりました。卒業後は、東京女高師の講師に就任しました。 大正8(1919)年に画家の金山平三と結婚し、それを機に職を辞しましたが、家庭にありながらも研究を続け、昭和8(1933)年に文献目録「Linkageニ関スル著作ノ目録」を『東北数学雑誌』へ発表しています。 牧田は妻として夫の画業を支え、昭和39(1964)年の夫の死後は、その業績を後世に残すことに奔走し、それは兵庫県立美術館開館の一つの契機となりました。昭和52(1977)年、88歳で永眠しました。

お茶の水女子大学の開学

授業風景 大正期後半から昭和初期にかけて、女子高等師範学校を女子師範大学とする要望が高まりました。 そこでは特に、東京女高師の同窓会である桜蔭会が「母校昇格運動」を果敢に展開しましたが、時代は戦時下に入り、実現を見るには至りませんでした。 この大学昇格への切なる願いは戦後に引き継がれ、国立女子大学への昇格を目指すこととなりました。 その実現には幾多の困難もありましたが、昭和23(1948)年6月、ついに文部省が国立女子大学を設置する方針を出します。 そして、女子の最高学府としての伝統と実績が認められ、昭和24(1949)年5月、学術研究の府としてお茶の水女子大学が開学しました。 その後、昭和38(1963)年には修士課程、昭和51(1976)年には博士課程を設置するなど、教育・研究環境を整えながらたゆみない発展と進歩を続けています。

女性研究者支援と女性リーダー育成

お茶の水女子大学では、常に現代社会に必要とされる高度な教養と専門性を備えた研究者、そして広くは女性リーダーの育成を目指し、様々な取り組みを積極的に行っています。 例えば、グローバルに活躍する研究者やリーダーを育てることを目的とした独自のカリキュラムを開発する他、海外研究活動や留学を支援する多彩なプログラムを設けています。 また、「特別研究員制度」(通称「みがかずば研究員」)では、出産や介護など様々なライフイベントにより研究を中断した女性研究者が研究現場に復帰する機会を提供しています。 これらの取り組みの成果は、各界で多くの卒業生が研究者やリーダーとして活躍しているという事実が示しているだけではなく、学外からも認められ高く評価されています。

丹下ウメ(もう一人の日本初の女子大学生)

丹下ウメは、明治6(1873)年に鹿児島県で生まれました。 日本女子大学校(現:日本女子大学)を明治37(1904)年に卒業した後、明治44(1911)年に文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験に女性として初めて合格しました。 大正2(1913)年、黒田、牧田と共に東北帝大に入学し、化学を専攻しています。 大正7(1918)年の東北帝大卒業後は、大学院に進学。その後はアメリカに留学し、昭和2(1927)年にPh.D.の学位を受けました。 帰国後は、日本女子大学校で教鞭をとりながら、理化学研究所で研究を続けました。 昭和15(1940)年に農学博士号を授与され、日本と外国の2つの博士号を取得しました。そして、昭和30(1955)年に82年の生涯を閉じました。

加藤セチ(北海道帝国大学女子学生第一号)

加藤セチは、明治26(1893)年に山形県で生まれました。東京女高師を大正7(1918)年に卒業すると直ぐに、北海道札幌の北星女学校(現:北星学園)に勤めました。 同年9月、「全科選科生」として北海道帝国大学(現:北海道大学)に入学し、北海道帝大の女子学生第一号となりました。 北海道帝大修了後は、大正11(1922)年より理化学研究所にて、吸収スペクトルと分子構造、燃料の燃焼機構などの研究に取り組みました。 昭和6(1931)年、日本で3番目の女性理学博士となりました。さらに、昭和26(1951)年には、女性として初めて理化学研究所の主任研究員に就任しています。 そして、平成元(1989)年に95歳で亡くなりました。